多くの人が生きるために電気を必要としている。それを届けるのが自分の仕事だ。

vol.01

東北電力釜石営業所 配電課 技術長

中島 幸司さん

その日の現場作業を終え、車で戻る途中、中島は東日本大震災に襲われた。半端ではない揺れだった。目の前の信号機は竹のように、異常なほどしなる。防災無線で「これは来るな」と思った。すぐに膨大な海水が川を逆流し、迫ってくる。命の危機を感じ、高台へ逃げた。車で夜を明かす。凍える寒さと不安で夜は殆ど眠れなかった。

↑釜石市内に新たに建てられた電柱(8月5日撮影)

翌12日、被害の全貌を目の当たりにする。街は跡形もない。それでも自分には放棄できない仕事がある。多くの人が生きるために電気を必要としている。それを届けるのが自分の仕事だ。「前へ前へ」。自分が使命感に後押しされていることに気づく。

停電復旧は被害の少ない地域から始まった。電柱や電線を修理し、一刻も早く電気を届ける。復旧作業は早朝から深夜まで毎日続いた。頻繁な余震が神経を摩り減らす。 夜は仮設事務所での雑魚寝。睡眠もままならない。何より、中島自身、自宅に残した家族の安否が分からなかった。「無事でいてくれ。いや、無事に決まっている」。不安を吹っ切るには、そう思うしかなかった。肉体も精神も極限まで追い込まれた。

「何で隣に(電気が)来てるのに、うちには来ない。何してるんだ!」。ある日、中島は現場で罵声を浴びた。しかし、腹は立たなかった。電気とは、それほど人々の暮らしに欠かせないものなのだ。懸命の復旧作業が続き、釜石営業所が受け持つエリアは4月末に停電復旧を果たす。

忘れ得ぬことがある。津波を逃れた人が集まる避難所に初めて電気がつながった。悲しみと不安に暮れる被災者が中島にかけたのは感謝の言葉だった。「ほんとにたくさん言葉をもらって……。被災した人が一番辛いのに」。
極限に近い自分たちの仕事がようやく報われたと思った。目頭を押さえて語る当時の記憶は一生胸に刻まれる。
この大災害で入社2、3年目の若手が成長した。甘えが消え、責任感が増した。職場に掲げる「不撓不屈」の文字に向き合い、中島は今日も現場に向かう。あとに従う若手の安全靴が響かせる、たくましい音を背に受けて--。