低線量被ばくの“不確実性”と宇宙の“超越性”

vol.01

東京大学医学部付属病院放射線科
准教授・緩和ケア診療部長

中川 恵一氏

東京大学医学部医学科卒業。同大医学部放射線医学教室入局。助手、専任講師などを経て現職。放射線とガン治療に関する気鋭の研究者として知られる。震災以降、同大の専門家を集めて「team_nakagawa」を結成。各地での放射線測定・相談会に加え、ツイッターやブログを活用し「放射線の正しい怖がり方」を積極的に発信。週刊新潮のコラム「がんの練習帳」のほか、毎日新聞でも連載を持つ。「放射線のひみつ」(朝日出版)など著書多数。

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低線量被ばくに対する恐怖が広がっています。たしかに被ばく線量が上がると発がんが増えますが、これは主に、広島・長崎の原爆被爆者を調査したデータに基づいています。チェルノブイリなどの過去の原発事故のデータは、原爆の調査研究ほど役に立ちません。飯舘村に測定に入った際にも経験したことですが、原発事故の場合、空間線量は、風や雨といった天候や、地形、地面の性質などによって、大きく変わるため、線量計を常時携帯しないかぎり、住民個人の被ばく量を正確に把握できないからです。

一方、原爆の場合は、被爆の瞬間にいた場所だけで浴びた線量がほぼ決まりますから、住民の発がんの有無を調べれば、線量と発がんの関係について、精度のよいデータが得られるわけです。そして、これまでの分析の結果、100ミリシーベルトの被ばくで、がん死亡率は約0.5%増加し、この値以上の被ばくでは、線量が増えるとともに「直線的に」リスクが上昇することが分かっています。

しかし、100ミリシーベルト以下の被ばくでがんが増えるかどうかについては分かりません。これは、喫煙や飲酒の他、野菜嫌いや、運動不足、塩分の摂りすぎ、といった生活習慣上の発がんリスクが、放射線とは比べものにならないほど高いからです。たとえば、喫煙で、がんによる死亡リスクは16倍くらいに上昇しますが、これは、2000ミリシーベルト!の被ばくに相当します。受動喫煙でも、100ミリシーベルト程度にあたります。低線量被ばくのリスクは、他の「巨大なリスク群」の前には、「誤差の範囲」といえる程度と言えるため、100ミリシーベルト以下の被ばくで発がんが増えるかどうかを検証するためには、膨大なデータ数が必要になるのです。

低線量被ばくで発がんが増えるかどうかは分かっていませんが、100ミリシーベルト以下でも、安全側に立って、線量とともに直線的に発がんも増えると想定する“哲学”あるいは“思想”が、国際的な放射線防護の考え方で、「直線しきい値なしモデル」と呼ばれています。しかし、このモデルを採用すれば、自然被ばく(約1.5ミリシーベルト)や医療被ばく(約4ミリシーベルト)が存在する以上、どんな人も“グレーゾーン”にいることになります。“純白”は存在しませんから、安全の目安は住民を中心に社会が決めるしかありません。しかし、「白か黒か」のデジタル的「二元主義」がグレーを受け入れる妨げになっています。また、徴兵制や内戦、テロにも無縁な現代日本人が、「ゼロリスク社会」の幻想を抱いてきたことも背景にあるでしょう。

福島第一原発事故で、発がんの増加は検出できないと私は思っています。しかし、被ばくを避けようとするあまり、家に閉じこもって運動をしなかったり、輸入牛肉ばかり食べて、野菜や魚といった日本人を世界一長寿にした食事のスタイルを放棄すれば、かえって、がんを増やすことになります。また、子供を外で遊ばせるかどうかで諍いを繰り返し、離婚にいたった夫婦も、現にいます。避難を強いられている方々はもとより、この事故が日本人に与える不幸の積算量は甚大です。

セシウム137の30年という半減期は、どんな最先端技術をもっても変えることができない「超越的な」ものです。半減期45億年(ウラン238)といった宇宙レベルの存在を人間が扱えると信じたところに人間の驕りがなかったか、省みる必要があると思います。